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リサール・デー [文化]

ホセ・リサール(José Rizal)フィリピン独立の英雄。1861年、ラグナ州のカランバで父フランシスコ・メルカドと母テオドラ・アロンソの間に生まれた。彼の家系はメスティーソといわれる中国とフィリピンの混血の一族であった。初等教育を終えるとマニラのアテネオ大学に学び、1877年に学士号を取得した。さらにアテネオに学び、土地測量の技術を学びながら、同時にフィリピンの最高学府サント・トマソ大学で哲学を学んだ。その後、母が失明の危機に陥ると医学を学ぶことを決意し、サント・トマスで医学を学び始めた。しかしサント・トマスを運営するドミニコ会員たちのフィリピン人蔑視の雰囲気に耐えられず大学を去った。リサールは父の反対を押し切って宗主国であるスペインのマドリッドに留学した。マドリッド中央大学で医学の勉強を続け、医師免許を取得すると、さらにハイデルベルクとパリで医学の研鑽を積んだ。ちなみにリサールは語学の天才であり、アラビア語、スペイン語、中国語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、マレー語、ポルトガル語、ロシア語、タガログ語やフィリピンの諸言語を自在に操り、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語、日本語、サンスクリット語を理解したといわれている。ホセ・リサールは「ノリ・メ・タンヘレ」(『我に触れるな』の意)と「エル・フィリブステリスモ」(『反対者』の意)という二つの著作で有名である。両方ともスペイン語で書かれているが、スペイン圧政下に苦しむ植民地フィリピンの現状が克明に描き出されており、フィリピン人の間に独立への機運を高めた。リサールは政治的独立のみを目指す革命志向家というよりはフィリピン人たちの生活改善を願う改革者であった。バルセロナでスペイン在住のフィリピン人留学生たちを組織してプロパガンダ運動を始め、雑誌「ラ・ソリダリダード」(『連帯』の意)を創刊した。そこで彼の打ち出した運動の方向性は以下のようなものであった。フィリピンはスペインの一地域であること、スペイン政府議会へのフィリピン代表派遣の権利が認められるべきこと、スペイン人の聖アウグスチノ修道会員、ドミニコ会員、フランシスコ会員でなくフィリピン人聖職者の養成を行うこと、言論の自由が認められるべきこと、フィリピン人に法律的平等が与えられること。もしこれらの改革案が受け入れられていれば、リサールの著作にも何の問題もなかっただろう。しかし、スペイン人統治者たちはこのような暴力に訴えない提案すらも植民地支配を脅かすものであると危険視した。1892年、マニラに戻ったリサールを待っていたのは辺地への追放であった。容疑は「リーガ・フィリピーノ」(フィリピン連盟)という組織による破壊工作。ミンダナオ島へ追放されたリサールは同地で病院と学校をつくって住民の啓蒙につとめた。1896年、秘密結社カティプナンが独立闘争を開始すると、以前からリサールに目をつけていたスペイン官憲に逮捕され、暴動の扇動容疑で銃殺刑が宣告された。リサールの人物を惜しんだスペイン人官吏が国を出て、キューバで医療奉仕するなら処刑は取り消せると提案したが、リサールは断り、故国のために死ぬ事を選んだ。処刑の前の晩に妹に手渡した遺言がわりの辞世の詩は後に「ミ・ウルティモ・アディオス」(『私の最後の別れ』)と名づけられ、彼の祖国への熱い思いを伝えるものとなっている。1896年、ホセ・リサール銃殺。リサールが処刑された場所は現在、リサール公園(ルネタ公園)として整備されており、彼を記念すると共に市民の憩いの場所になっている。ちなみにリサールは1888年に来日しており、一ヶ月ほど東京都(当時・東京府)内に滞在している。これを記念して東京の日比谷公園にはホセ・リサール記念像が設置されている。(フィデリ今日は何の日?より)


ロハス大通りにあるリサール・デーの看板


リサール公園(ルネタ公園)のリサールの記念碑


リサールの記念碑


サンチャゴ要塞にある監獄内のリサール像


サンチャゴ要塞内リサール博物館にあるリサール像


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